「McAfee」と聞けば、多くの人はパソコンのウイルス対策ソフトを思い浮かべるでしょう。
しかし、その創業者であるジョン・マカフィーは、単なる技術者ではありませんでした。
彼の人生はまるでスパイ映画のようなドラマに満ちています。
- 世界初の商用ウイルス対策ソフトを生み出した天才プログラマー
- ベリーズで”王国”を築き、隣人殺害の容疑者として逃亡
- 米大統領選に立候補し、政府の陰謀を暴露すると主張
- 逃亡生活の末、スペインの刑務所で謎の死を遂げる
これらの事実を並べるだけでも、「本当に実在した人物なのか?」と疑いたくなるほど。
しかし、彼は確かに生き、世間を騒がせ続けました。
この記事では、ジョン・マカフィーの波乱に満ちた生涯を紹介します。
荒れた少年時代と天才的な才能
父の影と数学の才能
ジョン・マカフィーは1945年9月18日、イギリスの米軍基地で生まれました。
父はアメリカ軍人、母はイギリス人。幼少期に家族とともにアメリカ・バージニア州へ移住しましたが、彼の家庭環境は非常に荒れていました。
- 父親はアルコール依存症で暴力的
- 15歳のとき、父が自殺
- 虐待と恐怖の中で育った
「毎朝起きると父親のことを思い出します。誰と付き合っても、そばに父親の影を感じます。父親が猜疑心を植えつけるのです。おかげでわたしの人生はめちゃくちゃです」とマカフィーは後年語っています。
そしてマカフィーの父親は、マカフィーが15歳のとき、銃で自ら命を絶ちました。
この経験は、若きマカフィーに深い影響を与え、彼の人格形成に大きな影響を与えたと言われています。
しかし、その一方で、マカフィーは幼い頃から数学とコンピューターに驚異的な才能を発揮していました。
荒れに荒れていた私生活
大学卒業後、マカフィーはノースイースト・ルイジアナ・ステイト・カレッジで数学の博士課程に進みましたが、教え子の学部生と関係を持ったことで大学を追われることになります。
彼の私生活は荒れに荒れていました。ドラッグや酒に溺れ、職を転々とする生活を送っていたのです。
その後、テネシー州のユニヴァックでプログラマーとして働き始めましたが、マリファナ購入の罪で逮捕され、会社を解雇されました。
しかし、マカフィーは偽の履歴書を作成し、ミズーリ・パシフィック鉄道で新たな職を得ます。
薬物依存と人生の転機
1969年、マカフィーはLSDを常用するようになり、ある日DMTという幻覚剤を大量に摂取した結果、意識が途切れ途切れになる経験をします。
彼はその後、ミズーリ・パシフィックに戻ることはありませんでした。
「いまでもそのときのトリップ状態のままなのではないかと思える」と彼は語っています。
「あの日以来すべては巨大な幻覚であり、いつかそこから目覚めて、気づいたらセントルイスの家のカウチでピンク・フロイドの『狂気』を聴いている、そんな日がくるのではないか」。
1983年、38歳のマカフィーはカリフォルニア州サンタクララの情報ストレージシステム会社オメックスでエンジニアリング部長を務めていましたが、コカインとアルコールへの依存が深刻化していました。
彼は部下にコカインを売り、自身も大量に摂取していました。
最終的に彼は会社を去り、家に引きこもってドラッグに溺れる日々を送りました。父親と同じように自殺することも考えたという彼は、セラピストの勧めでアルコール依存症患者の自助更生会に参加します。
そこで彼は「独りじゃないんだよ」と言われ、むせび泣きました。
「そのときがわたしにとって本当の意味で人生の始まりです」と彼は振り返っています。
NASAでの仕事とキャリアの始まり
彼はロアノーク・カレッジで数学を専攻し、その後、NASA、Xerox、Lockheed Martinなどの大企業で働きました。特にNASAのゴダード宇宙科学研究所では、アポロ計画に関連するコーディングにも携わったと言われています。
ウイルス対策ソフト「McAfee」の誕生
コンピューターウイルスとの出会い
マカフィーはロアノーク・カレッジで数学を専攻し、その後、NASA、Xerox、ロッキード社などの大企業で働きます。
1986年、マカフィーはLockheed Martinで働いていました。
その年、パキスタンでふたりの兄弟が世界初のPCウイルス「Brain(ブレイン)」を作成し、なんと、マカフィーのコンピューターがそのウイルスに感染してしまったのです。
「これは人類の新たな脅威だ!」
マカフィーにとって、このウイルスは幼少期に父親から受けた理不尽な暴力を思い起こさせるものでした。非合理的な攻撃に対して、今度は何か行動を起こそうと決意したのです。
マカフィーはそう直感し、ウイルス対策ソフトの開発を決意。1987年、自宅の小さなオフィスで「McAfee Associates」を設立し、世界初の商用ウイルス対策ソフトを開発しました。
天才的マーケティング
マカフィーの成功の秘訣は、彼自身が抱えていた恐怖感を人々に伝播させる能力にありました。
- 個人ユーザーには無料で提供
- 「ウイルスの脅威」をメディアで煽り、セキュリティソフトの需要を作り出す
- 企業向けには有料版を販売
このマーケティング手法が大成功し、「McAfee」は瞬く間に普及。5年ほどで『フォーチュン』誌のトップ100企業の半数がマカフィー製のソフトを導入するようになりました。
大きな初期投資もなく、1990年までに年間500万ドルを稼ぎ出すビジネスに成長します。
1992年、マカフィーはミケランジェロ・ウイルスが猛威を振るい、500万台のコンピューターが壊滅的被害を受けると予測。
実際の被害は数万件にとどまりましたが、マカフィー・アソシエイツのソフトは飛ぶように売れました。
後にマカフィーは「わたしの事業は予想通り2カ月で10倍に成長し、6カ月後に収益は50倍となった」と語っています。
成功と富の獲得
1992年10月、マカフィー・アソシエイツはナスダックに上場し、マカフィーの持ち株は一夜にして8,000万ドルの価値になりました。
しかし、1994年、彼は突然持ち株をすべて売却し、会社を去ります。理由は不明ですが、数億ドルを手にした彼は、その後の人生を「自由に」生きることになります。
マカフィーは成功したテック系起業家として典型的な道を歩んでいるように見えました。
ヨガスタジオを開設し、インスタントメッセージの会社を起業し、スピリチュアル系の本を執筆。母校のロアノーク・カレッジからは名誉博士号を授与されました。
2000年にはコロラドのロッキー山脈沿いにある9,000平方メートルの豪邸に住み、ヨガのインストラクターとしても活動。学校へのコンピューター寄贈や薬物使用防止の広告など、模範的な市民としての一面も見せていました。
転落と新たな人生
しかし、2008年の世界金融危機はマカフィーに大きな打撃を与えました。彼の資産は大幅に減少し、それまでのライフスタイルを維持できなくなったのです。
「ピーク時には1億ドルにまで達した彼の個人資産が、世界金融危機の影響で400万ドルにまで下落した」と報じられています。
2009年までに、彼はハワイの土地やニューメキシコの私有空港を含め、所有していたものをほぼすべてオークションにかけました。
また、複数の訴訟を抱えていた彼は、国外に出ることで法的問題から逃れようとしていました。
ベリーズでの奇行と逃亡生活
楽園での「王国建設」
2008年、リーマン・ショックで資産を失ったマカフィーは、新天地を求めて中米のベリーズへ移住します。
ベリーズの美しいリゾート地アンバーグリス・キー(Ambergris Caye)に移り住んだマカフィーでしたが、そこでの生活は次第に奇妙な様相を帯びていきます。
- 「自警団」を結成し、武装ガードマンを雇う
- 敷地内に大量の銃火器を備蓄
- 若い女性たちとハーレムのような生活を送る
- 地元住民と頻繁にトラブルを起こす
地元の人々からは「銃と若い女性が大好きな変わり者」と疎まれるような振る舞いで、自称自警団(ビジランテ)を名乗って武装ガードマンを雇い、自宅に銃火器を山ほど備蓄しました。
さらに広大な敷地内に謎めいた「研究所」まで建設し、怪しげな実験(本人曰くハーブ由来の抗生物質の開発)に没頭します。
かつてドラッグに溺れていた彼は「1983年以降ドラッグは絶っている」と主張していましたが、この研究所は「実は違法薬物の製造拠点ではないか」と噂され、地元当局に睨まれる存在となっていました。
また、マカフィーは若い女性たちと関係を持ち、中には16歳の少女エイミー・エムシュウィラーもいました。
彼女は後に、マカフィーを殺して金を奪おうとして失敗したことを告白しています。
隣人殺害事件と砂穴に埋まる奇行
2012年4月30日、ベリーズ警察犯罪組織撲滅捜査部隊(GSU)がマカフィーの敷地を強制捜査。メタンフェタミン製造の疑いで彼を拘束しました。しかし、違法薬物は発見されず、翌日には釈放されています。
同年11月、隣人のアメリカ人男性が自宅で射殺される事件が発生。
ベリーズ当局は彼を「重要参考人」に指定し、事情聴取しようとしましたが、彼はこれを拒否し、自宅の敷地内に穴を掘り、頭に段ボールをかぶって隠れるという奇行に走ります。
その後、20歳の恋人を連れてベリーズ国内を転々とし、ついには隣国グアテマラへ不法入国して逃げ延びました。
アメリカ本国へ強制送還
グアテマラで身を隠していたマカフィーでしたが、2012年12月に身柄を拘束されます。グアテマラ当局に不法入国の罪で逮捕されたのです。亡命申請も試みましたが認められず、最終的にはベリーズへの引き渡しを免れる代わりにアメリカ本国へ強制送還されました。
こうして一連の騒動から逃れたマカフィーは、しばらくはアメリカで静かに暮らしていたようです。
しかし彼の波乱はこれで終わりではありませんでした。
再び逃亡者に:脱税と暗号通貨
それから数年後、マカフィーは再び逃亡者となります。今度は標的がベリーズ当局ではなく、アメリカの当局でした。
マカフィーは2014年以降の数年間にわたり所得税を一切申告しておらず、暗号通貨の宣伝ビジネスなどで得た巨額の収入を隠していた疑いが浮上します。
仮想通貨の宣伝と「マカ砲」
2017年頃から、マカフィーは仮想通貨の世界に飛び込みます。マカフィーが特定の仮想通貨をツイートで推奨すると、価格が急騰する現象が発生し、「マカ砲」と呼ばれました。
マカ砲の影響
仮想通貨 | 価格上昇率 |
---|---|
XVG | 500% |
ETN | 40% |
BURST | 350% |
しかし、後にこれらは「ポンプ&ダンプ」(価格操作)であると批判され、マカフィーはアメリカ当局の捜査対象となり、脱税と詐欺の容疑で起訴しました。
SECによると、彼は仲間と共にニッチな通貨を大量に買い入れ、ソーシャルメディアで宣伝した後、価格が上昇したところで売り抜けていたとされています。
ヨットでの逃亡とスペインでの逮捕
2019年、米国で脱税容疑で訴追される可能性が高まると、彼は愛妻とボディガードらと共にヨットでアメリカをを脱出し、公海上やカリブ諸国を転々としました。
公海上や各国を渡り歩き、当局の手から逃れる生活に入ったのです。
自身のTwitterで「当局から“お前を消してやる”と脅されている。もし私が自殺したように見つかったら、それは私はやられたということだ」と不穏なメッセージを発信したのもこの頃でした。
南国のキューバに立ち寄り亡命を示唆したり、仮想通貨イベントに顔を出したりと逃亡生活を公言しつつも、居場所を転々として当局を翻弄します。
2019年7月にはドミニカ共和国でヨットに搭載していた銃火器所持により身柄を拘束されましたが、程なく解放され再び姿を消しました。その後ヨーロッパ方面へ渡ったと見られ、米当局の追跡は難航します。
結局、マカフィー逃亡劇の幕切れはスペインで訪れました。2020年10月、彼はトルコ行きの飛行機に搭乗しようとしていたところをスペインのバルセロナ空港で逮捕されます。
スペインで拘束されたマカフィーは、米国への引き渡しを待つ身となったのです。
<ジョン・マカフィー逃亡の足跡(主な経路)>
- 2012年(中米ベリーズ) – 隣人殺害事件で重要参考人とされ、ベリーズ国内で潜伏後グアテマラへ逃亡。グアテマラで逮捕されるも米国に送還。
- 2019年(米国→カリブ海) – 脱税容疑から逃れるためヨットで米国を出国。キューバやドミニカ共和国などカリブ海諸国を転々としながら潜伏。
- 2020年(ヨーロッパ) – スペインの空港で身柄拘束。そのままスペインの拘置所に収監され、米国への引き渡しを待つ。
スペインでの謎の死
2021年6月23日、スペインの刑務所でマカフィーが首を吊って死亡しているのが発見されました。
75歳、生涯の幕切れでした。
奇しくも前日にはスペインの裁判所がマカフィーを米国へ引き渡すことを正式に認めたばかりで、その矢先の出来事でした。
カタルーニャ自治州の司法当局は「状況から見て自殺以外の可能性はない」との声明を出し、独房から遺書のようなメモも見つかったと報じられています。
公式には自殺と結論付けられましたが、ジョン・マカフィーの死をめぐっては今も数々の謎と陰謀論が囁かれています。
- 彼は「私は絶対に自殺しない」と生前に明言していた
- 生前、「米政府に殺される」と発言
- 体に「$WHACKD(やられた)」とタトゥーを彫っていた
そもそもマカフィー自身が生前、「自分は米当局に命を狙われている。いつか自殺に見せかけて殺されるかもしれない」と公言していました。
実際、逮捕される少し前には「$WHACKD(やられた)」と彫られたタトゥーまで入れており、SNSでも「エプスタイン(謎の獄中死を遂げた米富豪)のように私が死んだら他殺を疑え」と挑発的なメッセージを発信していたほどです。
そのため彼の突然の死が報じられるや、「きっと誰かに消されたのだ」という陰謀説がインターネット上で瞬く間に広まりました。Twitter上では「#McAfeeDidntKillHimself(マカフィーは自殺していない)」といったハッシュタグが飛び交い、まるでエプスタイン事件の再来のように騒がれたのです。
マカフィーの妻ジャニスさんも、「夫が自ら命を絶つはずがない」と公式見解に強く異議を唱え、スペイン当局に徹底的な調査を要求しています。
弁護士によれば独房から見つかったメモの存在も家族には知らされておらず、真相解明には不透明な点が残るといいます。
一方で、仮に米国へ送致されていれば高齢のマカフィーに30年以上の禁錮刑が科される可能性もあったため、「絶望して自殺したとしても不思議ではない」という見方も根強くあります。
公式発表と陰謀論が交錯する中、ジョン・マカフィーの死は今なお謎めいた余韻を残しているのです。
伝説としてのジョン・マカフィー
波乱万丈の人生を送ったジョン・マカフィーですが、彼がIT業界にもたらした功績は計り知れません。
ウイルス対策ソフトの先駆者として、コンピューターセキュリティの重要性を世に知らしめた功労者であることは間違いないでしょう。
彼の創業したマカフィー社は彼自身が去った後も成長を続け、2010年には半導体大手のインテル社が約76億ドルという巨額で買収しています。
マカフィー本人は皮肉にも「インテルが自分を世界最悪のソフト企業(マカフィー)から解放してくれた」と発言し物議を醸しましたが、それも含めて彼ならではの愛憎がにじむエピソードと言えるかもしれません。
ジョン・マカフィーの人生は、栄光と破滅、天才と奇人が同居する劇的なものでした。
- IT界のパイオニア
- 政府に追われる逃亡者
- 仮想通貨の謎の伝道者
- 死の真相を巡る陰謀説
天才ゆえの孤独、富と名声に取り憑かれた末の転落、そして最期に残された謎…。
「ジョン・マカフィーとは何者だったのか?」
それは今なお、世界中の人々の間で語られ続けています。